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 十一

 あくる日目がさめてみると、身体中痛くてたまらない。久しく喧嘩をしつけなかったから、こんなにこたえるんだろう。これじゃあんまり自慢もできないと床の中で考えていると、ばあさんが四国新聞を持って来て枕元へ置いてくれた。実は新聞を見るのも退儀なんだが、男がこれしきのことにへこたれてしようがあるものかと無理に腹ばいになって、寝ながら、二ページを開けて見ると驚いた。昨日の喧嘩がちゃんと出ている。喧嘩の出ているのは驚かないのだが、中学の教師堀田某と、近頃東京から赴任した生意気なる某とが、順良なる生徒を使嗾してこの騒動を喚起せるのみならず、両人は現場にあって生徒を指揮したる上、みだりに師範生に向かって暴行をほしいままにしたりと書いて、次にこんな意見が付記してある。本県の中学は昔時より善良温順の気風をもって全国の羨望するところなりしが、軽薄なる二豎子のためにわが校の特権を毀損せられて、この不面目を全市に受けたる以上は、吾人は奮然としてたってその責任を問わざるをえず。吾人は信ず、吾人が手を下す前に、当局者は相当の処分をこの無頼漢の上に加えて、彼らをして再び教育界に足を入るる余地なからしむることを。そうして一字ごとにみんな黒点を加えて、お灸をすえたつもりでいる。おれは床の中で、糞でもくらえと言いながら、むっくり飛び起きた。不思議なことに今まで身体の関節が非常に痛かったのが、飛び起きると同時に忘れたように軽くなった。
 おれは新聞を丸めて庭へなげつけたが、それでもまだ気に入らなかったから、わざわざ後架へ持って行ってすてて来た。新聞なんてむやみな嘘をつくもんだ。世の中に何が一番法螺を吹くといって、新聞ほどの法螺吹きはあるまい。おれの言ってしかるべきことをみんな向こうで並べていやがる。それに近頃東京から赴任した生意気な某とは何だ。天下に某と言う名前の人があるか。考えてみろ。これでもれっきとした姓もあり名もあるんだ。系図が見たけりや、多田満仲以来の先祖を一人残らず拝ましてやらあ。――顔を洗ったら、頬ぺたが急に痛くなった。ばあさんに鏡をかせと言ったら、けさの新聞をお見たかなもしと聞く。読んで後架へすてて来た。欲しけりゃ拾って来いと言ったら、驚いて引き下がった。鏡で顔を見ると昨日と同じように傷がついている。これでも大事な顔だ、顔へ傷までつけられた上へ生意気なる某などと、某呼ばわりをされればたくさんだ。
 今日の新聞に辟易して学校を休んだなどと言われちゃ一生の名折れだから、飯を食っていの一号に出頭した。出てくるやつも、出てくるやつもおれの顔を見て笑っている。何がおかしいんだ。貴様たちにこしらえてもらった顔じゃあるまいし。そのうち、野だが出て来て、いや昨日はお手柄で、――名誉の御負傷でげすか、と送別会の時になぐった返報と心得たのか、いやにひやかしたから、余計なことを言わずに絵筆でも舐めていろと言ってやった。するとこりゃ恐入りやした。しかしさぞお痛いことでげしょうと言うから、痛かろうが、痛くなかろうがおれの面だ。貴様の世話になるもんかとどなりつけてやったら、向こう側の自席へ着いて、やっぱりおれの顔を見て、隣りの歴史の教師と何かないしょ話をして笑っている。
 それから山嵐が出頭した。山嵐の鼻にいたっては、紫色に膨脹して、掘ったら中から膿が出そうに見える。うぬぼれのせいか、おれの顔よりよっぽど手ひどくやられている。おれと山嵐は机を並べて、隣り同志の近しい仲で、おまけにその机が部屋の戸口から真正面にあるんだから運がわるい。妙な顔が二つかたまっている。ほかのやつは退屈にさえなるときっとこっちばかり見る。とんだことでと口で言うが、心のうちではこのばかがと思ってるに相違ない。それでなければああいう風にささやきあってはくすくす笑うわけがない。教場へ出ると生徒は拍手をもって迎えた。先生万歳と言うものが二、三人あった。景気がいいんだか、ばかにされてるんだか分からない。おれと山嵐がこんなに注意の焼点となってるなかに、赤シャツばかりは平常のとおりそばへ来て、どうもとんだ災難でした。僕は君らに対してお気の毒でなりません。新聞の記事は校長とも相談して、正誤を申し込む手続にしておいたから、心配しなくてもいい。僕の弟が堀田君を誘いに行ったから、こんなことが起こったので、僕は実に申しわけがない。それでこの件についてはあくまで尽力するつもりだから、どうかあしからず、などと半分謝罪的な言葉を並べている。校長は三時間目に校長室から出て来て、困ったことを新聞がかき出しましたね。むずかしくならなければいいがと多少心配そうにみえた。おれには心配なんかない、先で免職をするなら、免職される前に辞表を出してしまうだけだ。しかし自分がわるくないのにこっちから身を引くのは法螺吹きの新聞屋をますます増長させるわけだから、新聞屋を正誤させて、おれが意地にも務めるのが順当だと考えた。帰りがけに新聞屋に談判に行こうと思ったが、学校から取消の手続はしたと言うから、やめた。
 おれと山嵐は校長と教頭に時間の合い間を見はからって、嘘のないところを一応説明した。校長と教頭はそうだろう、新聞屋が学校に恨みを抱いて、あんな記事をことさらに掲げたんだろうと論断した。赤シャツはおれらの行為を弁解しながら控所を一人ごとに回ってあるいていた。ことに自分の弟が山嵐を誘い出したのを自分の過失であるかのごとく吹聴していた。みんなはまったく新聞屋がわるい、けしからん、両君は実に災難だと言った。
 帰りがけに山嵐は、君赤シャツは臭いぜ、用心しないとやられるぜと注意した。どうせ臭いんだ、今日から臭くなったんじゃなかろうと言うと、君まだ気が付かないか、きのうわざわざ、僕等を誘い出して喧嘩のなかへ、まき込んだのは策だぜと教えてくれた。なるほどそこまでは気がつかなかった。山嵐は粗暴なようだが、おれより知恵のある男だと感心した。
「ああやって喧嘩をさせておいて、すぐあとから新聞屋へ手を回してあんな記事をかかせたんだ。実に奸物だ」
「新聞までも赤シャツか。そいつは驚いた。しかし新聞が赤シャツの言うことをそうたやすく聴くかね」
「聴かなくって。新聞屋に友達がいりゃわけはないさ」
「友達がいるのかい」
「いなくてもわけないさ。嘘をついて、事実これこれだと話しゃ、すぐ書くさ」
「ひどいもんだな。本当に赤シャツの策なら、僕等はこの事件で免職になるかもしれないね」
「わるくすると、やられるかもしれない」
「そんなら、おれは明日辞表を出してすぐ東京へ帰っちまわあ。こんな下等な所に頼んだっているのはいやだ」
「君が辞表を出したって、赤シャツは困らない」
「それもそうだな。どうしたら困るだろう」
「あんな奸物のやることは、なんでも証拠のあがらないように、あがらないようにと工夫するんだから、反駁するのはむずかしいね」
「やっかいだな。それじゃ濡衣を着るんだね。おもしろくもない。天道是か非かだ」
「まあ、もう二、三日様子を見ようじゃないか。それでいよいよとなったら、温泉の町で取って抑えるより仕方がないだろう」
「喧嘩事件は、喧嘩事件としてか」
「そうさ。こっちはこっちで向こうの急所をおさえるのさ」
「それもよかろう。おれは策略は下手なんだから、万事よろしく頼む。いざとなればなんでもする」
 おれと山嵐はこれで分かれた。赤シャツがはたして山嵐の推察どおりをやったのなら、実にひどいやつだ。とうてい知恵比べで勝てるやつではない。どうしても腕力でなくっちゃ駄目だ。なるほど世界に戦争は絶えないわけだ。個人でも、とどのつまりは腕力だ。
 あくる日、新聞のくるのを待ちかねて、ひらいて見ると、正誤どころか取り消しも見えない。学校へ行って狸に催促すると、あしたぐらい出すでしょうと言う。明日になって六号活字で小さく取消しが出た。しかし新聞屋のほうで正誤はむろんしておらない。また校長に談判すると、あれより手続きのしようはないのだという答えだ。校長なんて狸のような顔をして、いやにフロックばっているが存外無勢力なものだ。虚偽の記事を掲げた田舎新聞一つあやまらせることができない。あんまり腹がたったから、それじゃ私が一人で行って主筆に談判すると言ったら、それはいかん、君が談判すればまた悪口を書かれるばかりだ。つまり新聞屋にかかれたことは、うそにせよ、本当にせよ、つまりどうすることもできないものだ。あきらめるよりほかに仕方がないと、坊主の説教じみた説諭を加えた。新聞がそんなものなら、一日も早くぶっつぶしてしまった方が、われわれの利益だろう。新聞にかかれるのと、すっぽんに食いつかれるとが似たりよったりだとは今日ただいま狸の説明によってはじめて承知つかまつった。
 それから三日ばかりして、ある日の午後、山嵐が憤然とやって来て、いよいよ時機が来た、おれは例の計画を断行するつもりだと言うから、そうかそれじゃおれもやろうと、即座に一味徒党に加盟した。ところが山嵐が、君はよす方がよかろうと首を傾けた。なぜと聞くと君は校長に呼ばれて辞表を出せと言われたかと尋ねるから、いや言われない。君は?と聴き返すと、今日校長室で、まことに気の毒だけれども、事情やむをえんから処決してくれと言われたとのことだ。
「そんな裁判はないぜ。狸はおおかた腹鼓をたたきすぎて、胃の位置が転倒したんだ。君とおれは、いっしょに、祝勝会へ出てさ、いっしょに高知のぴかぴか踊りを見てさ、いっしょに喧嘩をとめにはいったんじゃないか。辞表を出せというなら公平に両方へ出せと言うがいい。なんで田舎の学校はそう理屈がわからないんだろう。じれったいな」
「それが赤シャツの指金だよ。おれと赤シャツとは今までの行きがかり上とうてい両立しない人間だが、君の方は今のとおり置いても害にならないと思ってるんだ」
「おれだって赤シャツと両立するものか。害にならないと思うなんて生意気だ」
「君はあまり単純すぎるから、置いたって、どうでもごまかされると考えてるのさ」
「なお悪いや。誰が両立してやるものか」
「それにせんだって古賀が去ってから、まだ後任が事故のために到着しないだろう。その上に君と僕を同時に追い出しちゃ、生徒の時間にあきができて、授業にさしつかえるからな」
「それじゃおれを間のくさびに一席伺わせる気なんだな。こん畜生、だれがその手に乗るものか」
 翌日おれは学校へ出て校長室へ入って談判をはじめた。
「何で私に辞表を出せと言わないんですか」
「へえ?」と狸はあっけにとられている。
「堀田には出せ、私には出さないでいいという法がありますか」
「それは学校の方の都合で……」
「その都合が間違ってまさあ。私が出さなくってすむなら堀田だって、出す必要はないでしょう」
「その辺は説明ができかねますが――堀田君は去られてもやむをえんのですが、あなたは辞表をお出しになる必要を認めませんから」
なるほど狸だ、要領を得ないことばかり並べて、しかも落ちつきはらってる。おれはしようがないから
「それじゃ私も辞表を出しましょう。堀田君一人辞職させて、私が安閑として、留まっていられると思っていらっしゃるかもしれないが、私にはそんな不人情なことはできません」
「それは困る。堀田も去りあなたも去ったら、学校の数学の授業がまるでできなくなってしまうから……」
「できなくなっても私の知ったことじゃありません」
「君そうわがままを言うものじゃない、少しは学校の事情も察してくれなくっちゃ困る。それに、来てから一月たつかたたないのに辞職したと言うと、君の将来の履歴に関係するから、その辺も少しは考えたらいいでしょう」
「履歴なんかかまうもんですか、履歴より義理が大切です」
「そりゃごもっとも――君の言うところはいちいちごもっともだが、わたしの言う方も少しは察してください。君がぜひ辞職すると言うなら辞職されてもいいから、代りのあるまでどうかやってもらいたい。とにかく、うちでもう一ぺん考え直してみてください」
 考え直すって、直しようのない明々白々たる理由だが、狸が蒼くなったり、赤くなったりして、かわいそうになったからひとまず考え直すこととして引き下がった。赤シャツには口もきかなかった。どうせやっつけるならかためて、うんとやっつける方がいい。
 山嵐に狸と談判した模様を話したら、おおかたそんなことだろうと思った。辞表のことはいざとなるまでそのままにしておいてもさしつかえあるまいとの話だったから、山嵐の言うとおりにした。どうも山嵐の方がおれよりも利口らしいから万事山嵐の忠告に従うことにした。
 山嵐はいよいよ辞表を出して、職員一同に告別の挨拶をして浜の港屋まで下ったが、人にしれないように引き返して、温泉の町の枡屋の表二階へひそんで、障子へ穴をあけてのぞきだした。これを知ってるものはおればかりだろう。赤シャツが忍んで来ればどうせ夜だ。しかも宵の口は生徒やその他の目があるから、少なくとも九時過ぎにきまってる。最初の二晩はおれも十一時頃まで張番をしたが、赤シャツの影も見えない。三日目には九時から十時半までのぞいたがやはり駄目だ。駄目を踏んで夜なかに下宿へ帰るほどばかげたことはない。四、五日すると、うちのばあさんが少々心配をはじめて、奥さんのおありるのに、夜遊びはおやめたがええぞなもしと忠告した。そんな夜遊びとは夜遊びが違う。こっちのは天に代って誅戮を加える夜遊びだ。とはいうものの一週間も通って、少しも験が見えないと、いやになるもんだ。おれはせっかちな性分だから、熱心になると徹夜でもして仕事をするが、その代りなんによらず長持ちのしたためしがない。いかに天誅党でも飽きることに変わりはない。六日目には少々いやになって、七日目にはもう休もうかと思った。そこへ行くと山嵐は頑固なものだ。宵から十二時過ぎまでは目を障子へつけて、角屋の丸ぼやの瓦斯燈の下をにらめっきりである。おれが行くと今日は何人客があって、泊りが何人、女が何人といろいろな統計を示すのには驚いた。どうも来ないようじゃないかと言うと、うん、たしかに来るはずだがとときどき腕組をしてため息をつく。かわいそうに、もし赤シャツがここヘ一度来てくれなければ、山嵐は、生涯天誅を加えることはできないのである。
 八日目には七時頃から下宿を出て、先ずゆるりと湯に入って、それから町で鶏卵を八つ買った。これは下宿のばあさんの芋責めに応ずる策である。その玉子を四つずつ左右の袂へ入れて、例の赤手拭を肩へ乗せて、懐手をしながら、枡屋の楷子段を登って山嵐の座敷の障子をあけると、おい有望々々と韋駄天のような顔は急に活気を呈した。昨夜までは少しふさぎの気味で、はたで見ているおれさえ、陰気臭いと思ったぐらいだが、この顔色を見たら、おれも急にうれしくなって、何も聞かない先から、愉快々々と言った。
「今夜七時半頃あの小鈴と言う芸者が角屋へはいった」
「赤シャツといっしょか」
「いいや」
「それじゃ駄目だ」
「芸者は二人づれだが、――どうも有望らしい」
「どうして」
「どうしてって、ああいうずるいやつだから、芸者を先へよこして、後から忍んでくるかもしれない」
「そうかもしれない。もう九時だろう」
「今九時十二分ばかりだ」と帯の間からニッケル製の時計を出して見ながら言ったが「おいランプを消せ、障子へ二つ坊主頭がうつってはおかしい。狐はすぐ疑ぐるから」
 おれは一閑張の机の上にあった置きランプをふっと吹きけした。星明かりで障子だけは少々あかるい。月はまだ出ていない。おれと山嵐は一生懸命に障子へ面をつけて、息をこらしている。チーンと九時半の柱時計が鳴った。
「おい来るだろうかな。今夜来なければ僕はもういやだぜ」
「おれは銭のつづく限りやるんだ」
「銭っていくらあるんだい」
「今日までで八日分五円六十銭払った。いつ飛び出しても都合のいいように毎晩勘定するんだ」
「それは手回しがいい。宿屋で驚いてるだろう」
「宿屋はいいが、気が放せないから困る」
「その代り昼寝をするだろう」
「昼寝はするが、外出ができないんで窮屈でたまらない」
「天誅も骨が折れるな。これで天網恢々疎にして洩らしちまったり、なんかしちゃ、つまらないぜ」
「なに今夜はきっとくるよ。――おい見ろ見ろ」と小声になったから、おれは思わずどきりとした。黒い帽子をいただいた男が、角屋の瓦斯燈を下から見上げたまま暗い方へ通り過ぎた。違っている。おやおやと思った。そのうち帳場の時計が遠慮もなく十時を打った。今夜もとうとう駄目らしい。
 世間はだいぶ静かになった。遊廓で鳴らす太鼓が手に取るように聞える。月が温泉の山の後からのっと顔を出した。往来はあかるい。すると、下の方から人声が聞えだした。窓から首を出すわけにはゆかないから、姿をつきとめることはできないが、だんだん近付いて来る模様だ。からんからんと駒下駄を引きずる音がする。目を斜めにするとやっと二人の影法師が見えるぐらいに近付いた。
「もう大丈夫ですね。邪魔ものは追っ払ったから」まさしく野だの声である。「強がるばかりで策がないから、しようがない」これは赤シャツだ。「あの男もべらんめえに似ていますね。あのべらんめえときたら、勇み肌の坊っちゃんだから愛嬌がありますよ」「増給がいやだの辞表が出したいのって、ありゃどうしても神経に異状があるに相違ない」おれは窓をあけて、二階から飛び下りて、思うさまぶちのめしてやろうと思ったが、やっとのことでしんぼうした。二人はハハハハと笑いながら、瓦斯燈の下をくぐって、角屋の中へはいった。
「おい」
「おい」
「来たぜ」
「とうとう来た」
「これでようやく安心した」
「野だの畜生、おれのことを勇み肌の坊っちゃんだと抜かしゃがった」
「邪魔物というのは、おれのことだぜ。失敬千万な」
 おれと山嵐は二人の帰路を要撃しなければならない。しかし二人はいつ出て来るか見当がつかない。山嵐は下へ行って今夜ことによると夜中に用事があって出るかもしれないから、出られるようにしておいてくれと頼んできた。今思うと、よく宿のものが承知したものだ。たいていなら泥棒と間違えられるところだ。
 赤シャツの来るのを待ち受けたのはつらかったが、出て来るのをじっとして待ってるのはなおつらい。寝るわけにはゆかないし、始終障子の隙からにらめているのもつらいし、どうも、こうも心が落ちつかなくって、これほど難儀な思いをしたことはいまだにない。いっそのこと角屋へ踏み込んで現場を取って抑えようと発議したが、山嵐は一言にして、おれの申し出をしりぞけた。自分どもが今時分飛び込んだって、乱暴者だといって途中でさえぎられる。わけを話して面会を求めればいないと逃げるか別室へ案内をする。不用意のところへ踏み込めると仮定したところで何十とある座敷のどこにいるかわかるものではない、退屈でも出るのを待つよりほかに策はないと言うから、ようやくのことでとうとう朝の五時まで我慢した。
 角屋から出る二人の影を見るやいなや、おれと山嵐はすぐあとをつけた。一番汽車はまだないから、二人とも城下まであるかなければならない。温泉の町をはずれると一丁ばかりの杉並木があって左右は田んぼになる。それを通りこすとここかしこに藁葺があって、畠の中を一筋に城下まで通る土手へ出る。町さえはずれれば、どこで追い付いてもかまわないが、なるべくなら、人家のない、杉並木で捕まえてやろうと、見えがくれについて来た。町をはずれると急に馳け足の姿勢で、はやてのように後ろから、追い付いた。何が来たかと驚いて振り向くやつを待てと言って肩に手をかけた。野だは狼狽の気味で逃げ出そうという景色だったから、おれが前へ回って行手をふさいでしまった。
「教頭の職をもってるものがなんで角屋へ行って泊った」と山嵐はすぐなじりかけた。
「教頭は角屋へ泊って悪いという規則がありますか」
と赤シャツは依然としてていねいな言葉を使ってる。顔の色は少々蒼い。
「取締上不都合だから、蕎麦屋や団子屋へさえはいっていかんと、いうぐらい謹直な人が、なぜ芸者といっしょに宿屋へとまり込んだ」野だは隙を見ては逃げ出そうとするからおれはすぐ前に立ちふさがって「べらんめえの坊っちゃんたなんだ」とどなりつけたら、「いえ君のことを言ったんじゃないんです、まったくないんです」と鉄面皮に言いわけがましいことをぬかした。おれはこの時気がついてみたら、両手で自分の袂を握ってる。追っかける時に袂の中の卵がぶらぶらして困るから、両手で握りながら来たのである。おれはいきなり袂へ手を入れて、玉子を二つ取り出して、やっと言いながら、野だの面へたたきつけた。玉子がぐちゃりと割れて鼻の先から黄味がだらだら流れだした。野だはよっぽど仰天したものとみえて、わっと言いながら、尻持ちをついて、助けてくれと言った。おれは食うために玉子は買ったが、ぶつけるために袂へ入れてるわけではない。ただ癇癪のあまりに、ついぶつけるともなしにぶつけてしまったのだ。しかし野だが尻持ちをついたところを見てはじめて、おれの成功したことに気がついたから、こん畜生、こん畜生と言いながら残る六つを無茶苦茶にたたきつけたら、野だは顔中黄色になった。
おれが玉子をたたきつけているうち、山嵐と赤シャツはまだ談判最中である。
「芸者を連れて僕が宿屋へ泊ったという証拠がありますか」
「宵に貴様のなじみの芸者が角屋へはいったのを見て言うことだ。ごまかせるものか」
「ごまかす必要はない。僕は吉川君と二人で泊ったのである。芸者が宵にはいろうが、はいるまいが、僕の知ったことではない」
「だまれ」と山嵐は拳骨をくらわした。赤シャツはよろよろしたが「これは乱暴だ、狼藉である。理非を弁じないで腕力に訴えるのは無法だ」
「無法でたくさんだ」とまたぽかりとなぐる。「貴様のような奸物はなぐらなくっちゃ、こたえないんだ」とぽかぽかなぐる。おれも同時に野だをさんざんにたたきすえた。しまいには二人とも杉の根方にうずくまって動けないのか、目がちらちらするのか逃げようともしない。
「もうたくさんか、たくさんでなけりや、まだなぐってやる」とぽかんぽかんと両人でなぐったら「もうたくさんだ」と言った。野だに「貴様もたくさんか」と聞いたら「むろんたくさんだ」
と答えた。
「貴様らは奸物だから、こうやって天誅を加えるんだ。これに懲りて以来つつしむがいい。いくら言葉巧みに弁解が立っても正義は許さんぞ」と山嵐が言ったら両人ともだまっていた。ことによると口をきくのが退儀なのかもしれない。
「おれは逃げも隠れもせん。今夜五時までは浜の港屋にいる。用があるなら巡査なりなんなり、よこせ」と山嵐が言うから、おれも「おれも逃げも隠れもしないぞ。堀田と同じ所に待ってるから警察へ訴えたければ、勝手に訴えろ」と言って、二人してすたすたあるきだした。
 おれが下宿へ帰ったのは七時少し前である。部屋へはいるとすぐ荷作りをはじめたら、ばあさんが驚いて、どうおしるのぞなもしと聞いた。おばあさん、東京へ行って奥さんを連れてくるんだと答えて勘定をすまして、すぐ汽車へ乗って浜へ来て港屋へ着くと、山嵐は二階で寝ていた。おれはさっそく辞表を書こうと思ったが、なんと書いていいかわからないから、私儀都合これあり辞職の上東京へ帰り申候につきさよう御承知くだされたく候以上とかいて校長宛てにして郵便で出した。
 汽船は夜六時の出帆である。山嵐もおれも疲れて、ぐうぐう寝込んで目がさめたら、午後二時であった。下女に巡査は来ないかと聞いたら参りませんと答えた。
「赤シャツも野だも訴えなかったなあ」と二人で大きに笑った。
その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆へ出たような気がした。山嵐とはすぐ分かれたぎり今日まで会う機会がない。
 清のことを話すのを忘れていた。――おれが東京へ着いて下宿へも行かず、革鞄をさげたまま、清や帰ったよと飛び込んだら、あら坊っちゃん、よくまあ、早く帰って来て下さったと涙をぽたぽたと落した。おれもあまりうれしかったから、もう田舎へは行かない、東京で清とうちを持つんだと言った。
 その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至き満足の様子であったが気の毒なことに今年の二月肺炎にかかって死んでしまった。死ぬ前日おれを呼んで坊っちゃん後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めてください。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っておりますと言った。だから清の墓は小日向の養源寺にある。

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